この瑞龍寺は鉄眼禅師による中興の寺です。          鉄眼禅師略伝はこちら
 もともとは村民より薬師堂をあずかり、慈雲山瑞龍寺としたものです。
 鉄眼禅師は仏教に流布する一切経がないことにおもいをはせて、この経典集大成の印刷のための木製精版を行いました。当時中国より渡来の隠元禅師の所持の最新経典を譲り受けて製作を発願し、そしてそのための募財の全国行脚に出発しました。
 しかし、募財中に二度の飢饉等何万人の人々を救済するためにこの募財金を投げ出しました。
 二度目には救済のために、二百両の借金の依頼状が残っています。
 昭和四年には、その功績により「宝蔵国師」が下賜されました。
 太平洋戦争までの国定国語教科書には鉄眼禅師のページに「一切経」における「一以て此れを貫くことの必要性と二度の難民救済により(三度一切経を完成)したと言われている。」と書かれています。

一切経(大蔵経)開板

お釈迦様がインドで人々の為に説かれた経とその修行の生活で作られた戒律とそれらを論じた論の三つが三蔵法師によって中国にもたらされ、いわゆる西遊記として語られています。このインドの三蔵がたくさんの学者によって全巻漢訳されました。これが一切経です。日本にも将来されましたが、すこしです。また、日本でも一切経の開板が行われましたが、これも少しのみでした。

一切経の日本渡来

中国福建省福州に、現在も黄檗山萬福寺があります。この寺で明末時代に住持されていた学徳兼備の隠元禅師が、日本からのたびたびの懇請に七十三歳で来朝されました。後水尾法皇・三代将軍家綱公・諸大名のご協力・ご寄進により宇治の地に中国と同名の黄檗山萬福寺を創建されました。黄檗宗が伝来され、文化が花開き、茶道・芸術文化等の中国文化を伝播されて日本文化に与えた影響は計り知れません。

鉄眼一切経開板と難民救済

隠元禅師(万治元年(1658)に大坂商人勝性印居士より贈呈される)から明版一切経を授けられ、これを六万枚の版木とする為に日本全国津々浦々を行脚して、大名公卿から遊女にまで募財の旅に明け暮れました。強盗に会ったり、急流の木曽川に流され、岸辺の柳の枝につかまり助かったことなど大変幸酸苦労されました。亡くなる前年には後水尾法皇に一切経の初刷を献上しています。この募財を洪水の飢饉に投げ出して難民救済を行いました。第二回の募財の旅に出発しましたが、天和の飢饉では足らず、江戸の豪商山崎半右衛門宛に二百両の借金依頼状を書いています。この借金依頼状は当寺に保存されています。その中にその飢饉の難民の様子が生々しく書かれ、返済が不可能と記されていましたが、借金をすることが出来ました。そしてその救われた人は何万人とも言われています。
その一ヵ月後、天和二年(1682)三月二十二日(旧暦)巳の刻、五十三歳の生涯を閉じています。
残された遺言には七顛八倒、五十三年、妄りに般若を談じて、罪犯弥天、華蔵海を優遊して、水中の天を踏破す。
六万枚の版木は、国重要文化財として保存され、現在も印刷に使用されています。

一切経の印刷
宇治の黄檗山宝蔵院では、国重要文化財として、六万枚の版木が保存され、現在も手刷り印刷が行われています。この印刷の書体は明朝体で現在の活字の中心となるもので、また、二十字二十行の原稿用紙と同じものです。印刷の前後には仏像などの姿が印刷され、浮世絵の版木の原点になったと言われています。

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            一切経 版木

 

第二次世界大戦焼失前の全容

方丈 斉堂
庫裡 本堂
天王殿 三門
間山堂 禅堂
鐘楼

現在の瑞龍寺

三門


鐘楼

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